松殿山荘茶道会

松殿山荘  平安時代末期、関白藤原基房は宇治東方の丘陵地に松殿 (まつどの) という別業を営みました。この地は、曹洞宗開祖道元の誕生の地とも伝えられています。茶道の起源の復興を志した高谷宗範 (本名 恒太郎) が、1918年から十数年の歳月をかけ、松殿山荘を完成させます。広大な敷地内には、大阪の天王寺屋五兵衛宅から移築した大広間や茶室を含み、高谷宗範の茶道に対する考えを反映した17の茶室を擁する大小12の建物が存在します。2017年、それらはすべて国の重要文化財に指定されました。
 松殿山荘は小高い森の中に隠されています。中野はその小高い森の中に松殿山荘が存在することも知らずに、20年以上その周りをコースとして走る年月を過ごしていたのです。2018年、日本文化の種々の側面が集まる茶道を学ぶことを決心した日、初めてその森の中に松殿山荘が存在するのを知ったのです。そこは、ある意味、奇跡の場所でした。

「『源氏物語』深層の発掘 秘められた詩歌の論理」
熊倉 千之

最後の国文・ 国語学者  熊倉千之先生は岩手県で生まれておられますが、東京育ちの江戸っ子と呼ばせていただいた方が良いかも知れません。クラスの中の多くの生徒が東京大学へと進学する 日比谷高校で 高校時代を過ごされましたが、東大を受験することが「学び」であるのかと、若き熊倉青年は悩むことになります。東大受験を捨てて高卒として働き始めますが、熊倉青年に社会の波・風は荒く、逃げるようにアメリカに渡ることになるのです。サンフランシスコに渡った熊倉青年は皿洗いの仕事をしながら、コミュニティ・カレッジで「学び」を再開することになります。そしてそのコミュニティ・カレッジにおいて、熊倉青年に「学び」とは何かを知らしめるメンターと出会うことになるのです。「学び」の本質を知った熊倉青年は、コミュニティ・カレッジからサンフランシスコ州立大学に編入し、卒業。1980年にはカリフォルニア大学バークレー校において、「『源氏物語』の語りの時間」でPh.D.を取得することになるのです。
 日本社会ではドロップ・アウトせざるを得なかったひとりの青年が、世界有数の大学においてPh.D.を得るまでには、また、ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教えることにおいては、幾つものドラマが存在していました。1988年には日本に帰国され、東京家政学院大学、金城学院大学において、教授を歴任されることになります。2007年に日本の大学を退職された後も、日本文学・日本語学の研究を精力的に続けておられます。中野が熊倉先生にお会いできたことにもドラマがあるのですが、中古・近代・現代の日本文学及び日本語に対する博識と洞察の深さにおいて、熊倉先生は日本の最後の国文・国語学者だと、中野は思っています。


「染付香炉 野葡萄」
本多 亜弥

美術・工芸の可能性  2019年の第48回日本伝統工芸近畿展、会場の下の階においても工芸作家さん達の作品が展示されていました。広い展示室の壁に沿って置いてある数々の工芸品、入り口から出口までの作品を観た後に再び足を戻した作品が、この「染付香炉野葡萄」でした。白磁の空間の中に異なる蒼と碧で描き分けられた野葡萄の葉と実が、確かに風に揺らいでいたのです。
 別のルートで廻っていた妻も、同じようにこの作品のところに戻って来ていました。ふたりして、じっと見入っていたのですが、このぼくらに気が付き、声を掛けて来られたのが、「塗師表悦」の三木啓樂さんだったのです。
 三木さんは自分の作品でもない本多亜弥さんの染付の可能性について、本多さん本人かと思うほど、熱く語られるのでした。松殿山荘で教えていただいているお茶が、若い人達に知られるためには、現代の工芸作品との組合せによってもっと身近なものになって行かなければと考えていた中野は、三木さんの熱い語りもあり、この香炉を購入することにしたのです。
 購入の手続きをする間、もう一度各展示品を観て行く中で、三木啓樂さんの作品に気が付きました。そのとき中野は、自身が如何に不明であるか、如何に鈍い感性しか持ち合わせていないのかを思い知らされたのです。一見すると変哲もないように見える三木さんの「切錆飾卓」は、見る位置、見る角度によって、驚くような光と動きを見せていたのです。それはちょうど、月の明かりに揺れる波間のような飾卓でした。そして、こうした工芸の良さと可能性をひとりでも多くの人に知って貰いたいという願いが、作品のジャンルを超えて熱く語る三木さんの動機だったのです。